2014年8月24日日曜日

Half-Invisibility Lark3

このプロジェクトは、
“Pretending to Be Castrated”
“Half Invisibility Lark”
“Five Anonymous Stones Picked Up at Five Famous Places”
という主に3つのプロジェクトを組み合わせたインスタレーションで成り立っています。

“Pretending to Be Castrated”
これは、1940年の東京オリンピックのポスターに描かれている腕のない埴輪をモチーフに、Rafael Bordalo Pinheiro社の作品風に陶器の彫刻を制作したものです。
(風刺画家であるBordaloは1884年に陶器の工場を立ち上げました。)
埴輪の腕のない状態を”半透明的”と見なし、その透明となった腕は、Bordaloの代表的なキャラクター、Zé Povinhoの反体制のポーズであったと空想し制作しました。



”Half Invisibility Lark”
このプロジェクトは、”半透明的な状況”をキーワードに、Bordaloの風刺画をベースとして、H.G.Wellsの小説  ”透明人間”と”宇宙戦争”、アーティストの糸井貫二、コメディアンのマルクス・ブラザース、手塚治虫の漫画 ”アラバスター”、1940年の東京オリンピックのスタジアムの関係予定図、原子力発電所、など、いくつかのモチーフを繋ぎ合わせて、様々な”半透明的な状況”を空想し、版画を制作しました。



”Five Anonymous Stones Picked Up at Five Famous Places”
これは、5つの有名な場所で拾った何の変哲もな小石を使って、接続と切断の統合という”中間の状態”を作り出そうとするプロジェクトです。


このプロジェクトは、以前あった出来事がきっかけとなりました。
以前ポーランド、クラクフを訪れた時、蚤の市へ行きました。
なんとなく、売られている瓶を見ていると、商人のおじさんが、”これはアウシュビッツの瓶だ。アウシュビッツで拾ったんだ。” と言いました。
その発言はいかにも、うそっぽかったですが、
急にその瓶が気になって結局買ってしまいました。

身元不明の瓶と”アウシュビッツの瓶”との違いとは何か?
物質的にはもちろん何も変わりません。
もともと身元不明な瓶は、”アウシュビッツの瓶”と宣言されることによって、
ただの身元不明な瓶ではなくなりました。
しかし、それは”アウシュビッツの瓶”であると固定されたというよりは、
その可能性と同じくらい、逆向きの”アウシュビッツの瓶ではない”可能性を内包しているように感じました。
(この原因として、その話がうそっぽかったことがあげられます。実際他の店でも商人は、
ほとんどのものに対してアウシュビッツで拾われたものだと言ってました。
それでも完全にうそとは言い切れません。また、それを確かめることもできません。
あるいは予想通り騙されているかもしれません。) 
それは、”アウシュビッツの瓶”であることと、”アウシュビッツの瓶”ではないこととの”中間の状態”と言えるかもしれません。もともと身元不明な瓶は、積極的”に”身元不明化”した瓶として、商人によってこちらへ伝達されたのでした。
私は、このプロジェクトで、”中間の状態”の作り出すことというテーマを2種類の方法で制作しようと考えました。
一つ目の方法は、拾った小石の表面の起伏をスキャンするように、粘土にナイフで反映させ、立体物を制作するというものです。
このような部分的な視点は、日本の石庭の設計方法にヒントを得ています。
(中沢新一の”対称性人類学”を参照にしています。)
庭師は、設計図を使わず、歩きながら地面の起伏に従順に遍歴し、しるしを打っていくという身体的な方法で設計していくようです。
私は、小石を大地のように扱い、その表面を歩くようにコピーしました。
しかし、部分的な視点で表面の起伏だけに注目しているので、
立体物の全体の量感やバランスは、実際の小石とずれています。
それはこの立体物の量感と表面との関係もずれていることを意味します。
立体物の量感は、小石のどこかの表面のコピーであり、
立体物の表面は、また小石のどこかの表面のコピーであり、
それらは、小石一つ一つの境界を超えて繋がっています。
その繋がりは、中断と忘却によって可能となります。
コピーの作業に生活のすべての時間をつぎ込むことはできません。
いつも中断と忘却がつきまとっています。
中断と忘却の度に、部分的な視点は方向性を見失い、また別の部分的な視点へ繋がっていきます。この立体物は、小石の表面と私の身体的なコンディションが反映されています。


二つ目の方法は、拾った小石を使って手品を参加者に行い、そのトリックをその参加者にに教え、またその参加者は、別の参加者へその手品を行い、またその参加者は別の参加者に、、、といった具合に、”手品をして、そのトリックを教える”という行動をリレーのように繰り返し、その場面を動画撮影するというものです。
この手品は、2つの条件が必要となります。
一つ目の条件は、この無名の小石が無名であり続ける事です。
トリックとして小石が入れ替わるので、
小石が入れ替わったことに気づかれてしまうと、手品として成立しません。
この小石がその小石として認識できないということは、
環境との区別のつかない、部分的な視点と言えます。
2つ目の条件は、手品の受け手は、この手品にはトリックがあることを知りながら、
あえてトリックがあることを知らないふりすることが求められます。
敢えてそれを信じるふりをするという否定的な構造は、
スノビズムに当てはまります。
スノビズムは、実質的に効果がないにも関わらず、固有性を立ち上げるために、
敢えて環境を否定するという構造で、全体性の視点と言えます。
この手品は、部分的な視点と全体性の視点という正反対の視点の統合という特徴を持っています。

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